LOGIN御門朱莉は、面白いものを見つけると、すぐに触りたくなる性格ではない。
むしろ逆だ。 近づけば壊れそうなものほど、少し離れた場所から輪郭を確かめたくなる。 言葉をかければ反応が返る。反応が返れば、隠している側は必ずどこかで形を崩す。だから、急いで触りに行くのは三流だと、朱莉はわりと本気で思っていた。 そして今、久瀬湊人という転校生に対しても、朱莉はその距離を測っていた。 文化祭の後から、空気が変わっている。 本人は何も言わない。 でも、鳴海すばるの妙に慎重な視線も、倉科紬希の静かな揺れも、柊坂真白の“怒っているというより、確認している”顔も、全部が少しずつ前とは違う。 何かあったのだ。 それも、おそらく“声”や“言葉”に関わる類の何か。 朱莉はそこまでは掴んでいた。 だが彼女にとって、本当に興味があ打ち上げの翌朝、教室の空気は少しだけ不思議だった。 文化祭という大きな山を越え、 その打ち上げという“ちゃんと終わった感”まで一応は済ませて、 普通なら今日は、もっとすっきりしていていいはずだった。 実際、クラス全体で見ればそんな感じではある。 少し眠そうで、少しだるそうで、でもどこか満足げ。 昨日の写真を見せ合う声。 誰が食べすぎたとか、誰が最後までうるさかったとか、そういう軽い笑い。 けれど窓際の一角だけは、そこにもう一枚薄い感情の膜がかかっていた。 理由はたぶん、昨夜の短いメッセージだ。 『行けず、すみませんでした。本当に残念でした』 たったそれだけ。 でも、その短さが妙に残る。 来なかった。 その事実はもうどうしようもない。 なのに、来なかったことそのものより、そのあとで届いた短い言葉の方が、みんなの胸に少し深く刺さっていた。 ◇ 鳴海すばるは、自分が昨夜あのメッセージを三回は読み返したことを、誰にも言うつもりはなかった。 一回目は、普通に読む。 二回目は、“本当に残念でした”のところで止まる。 三回目は、その文の順番が嫌に久瀬っぽいと思ってしまって、そこでまた少しだけ胸がざわつく。 来たくなかったんじゃない。 言い訳したいんでもない。 まず事実を置いて、謝って、そのあとに本音が来る。 しかもその本音が、“行きたかったです”ではなく“残念でした”なのが、余計に重い。 自分の感情を相手に押しつけすぎない言い方だ。 でも、十分に本音だともわかる。「……そういうとこなんだよなあ」 朝、自席に座ってスマホの画面を見ながら、すばるは小さく
文化祭の打ち上げだというのに、最初の乾杯の前から少しだけ欠けている感じがした。 それが誰なのかは、そこにいる四人とも、ちゃんと分かっていた。 ◇ 店は駅前の、よくある学生向けの居酒屋だった。 明るすぎない照明。 木目調のテーブル。 少し狭めの通路。 制服のまま集まった高校生たちの声で、入口のあたりからすでにわちゃわちゃしている。 文化祭が終わった週の金曜夕方。 どのクラスも似たようなものなのだろう。 同じ学校らしい顔が何組もいて、店員が慣れた様子で席へ案内していく。「うわ、思ったよりちゃんと打ち上げっぽい」 鳴海すばるがそう言った時には、もう半分くらいテンションが上がっていた。 こういう場の空気を吸うだけで少し浮かれるタイプだ。「打ち上げっぽいって何」 柊坂真白が呆れたように言う。「打ち上げなんだから打ち上げっぽいでしょ」「いや、なんかもっとファミレスっぽいの想像してた」「それはアンタが安さ重視すぎるだけ」 真白が即座に刺す。「え、でも学生の味方じゃん」「うるさい」 そのやりとりを、日野が笑いながら聞いている。 倉科紬希は席へ座って、配られたメニューを開きながら小さく息をついた。 落ち着かないわけではない。 でも、落ち着いているとも言えない。 四人で同じテーブル。 周囲にはクラスの他の面々。 文化祭が終わったあとの、ちょっとした非日常。 本来なら、もう少し素直に楽しいだけでよかったはずだ。 でも今日は、そこへ一つだけ目に見えない空席がある。「……来ないんだね」 思わず、かなり小さく漏れた。 たぶん誰にも聞こえないつもりだった。「ん?」 しかし、すばるの耳はそういう時だけ妙
教室のざわめきが、ゆっくりと帰り支度の音へ変わっていく。 椅子を引く音。 机の中へ教科書を戻す音。 廊下から聞こえる、別クラスの「じゃあ駅で」みたいな軽い声。 その全部が、今日という金曜の放課後を“楽しみな側”へ進めていた。 なのに、窓際の一角だけは、そこへ乗りきれずに少しだけ止まっている。 久瀬湊人のスマホに入った新しい通知。 相馬からの短い文面。 車を手配済み。学校から直接移動願います。 ほとんど、決定打みたいなものだった。 まだ「絶対に無理です」と口にしたわけではない。 でも、ここまで来るともう、希望の形を保つのも難しい。 さっきまでの「待っていてください」が、少しずつ現実に押し負けていく音がする。 柊坂真白は、その気配を正確に感じ取っていた。 感じ取ってしまう自分が、最近は少し腹立たしい。 前なら、もっと単純に苛立てた。 また何かあるんだ。 また急にいなくなるんだ。 だったら最初から期待させないで。 そういう直線的な感情だけで済んだはずなのに。 でも今は違う。 久瀬が来たがっていることも、 来られない時に一番困った顔をすることも、 それでもちゃんと窓際のこの空気を大事にしたがっていることも、 もう知ってしまっている。 知ってしまったあとでは、怒るだけでは済まない。 怒るより先に、見送る方を選んでしまう。 それが、かなり面倒だった。 ◇「……かなり」 スマホを見たあと、久瀬がそう言った声は、思っていたより静かだった。 静かというより、少しだけ諦めに近い。「そっか」 すばるが言う。 紬希の声も小さ
放課後の教室には、独特のざわめきがあった。 六限目が終わった直後の、まだ誰も完全には帰り支度へ切り替わっていない時間。 机を引く音、鞄のファスナーを開ける音、廊下から聞こえる別クラスの笑い声。そこへ、今日の打ち上げという少し浮いた予定が混ざって、空気全体がいつもより落ち着かない。 その中で、久瀬湊人は立ち上がったまま動けずにいた。 スマホの画面には、さっき届いた通知がまだ残っている。 AstraLink管理:夕方の回線確認、十七時開始に前倒し。参加必須。 相馬:本日、直行の可能性が高まりました。十七時十五分以降、即応できるように。 AstraLinkだけなら、まだ可能性はあった。 最速で確認だけ終わらせて、どこかで抜けて、途中合流できるかもしれない。 でも家側まで重なると無理だ。 十七時開始の確認を終えたあと、十七時十五分以降に即応。 そこから十八時集合の打ち上げへ普通に行く未来を、どう計算しても現実的には作れない。 つまり。 もうかなり、高い確率で無理だ。 それを言わなければならない。 今ここで。 窓際の四人へ。「……今日は」 さっき口にしたその続きが、喉の奥で重い。「厳しいかもしれません」 言い切る。 言い切った瞬間、教室のこの一角だけ空気の温度が少しだけ落ちた気がした。 日野が最初に反応する。「あー……」 短い声。 軽く受け止めようとしてくれているのは分かる。 でも、完全に軽くもできない声音だった。 すばるはほんの少しだけ目を見開き、それからすぐに笑おうとした。「まだ“かも”なんだ」 言い方は明るい。 でも、その奥にある揺れはかなり見える。 真白は席に座った
金曜日の朝は、少しだけ世界が軽い。 そう思っていた時期が、たしかに久瀬湊人にもあった。 週末が近いというだけで、教室の空気は緩む。 授業もどこか浮つく。 放課後の予定がある日ならなおさらで、人は朝から少しだけ明るい顔をする。 普通の高校生なら、たぶん今日はそういう日だ。 文化祭打ち上げの日。 夕方十八時集合。 店も決まり、人数もほぼ固まり、クラスのグループには昨夜のうちから「楽しみ」「何頼む?」みたいな軽いやりとりが続いていた。 そして、久瀬湊人も本当なら、そういう軽さの側にいたかった。 行けるなら行きたい、ではない。 もうかなり本気で、普通に行きたいと思っている。 日野の気楽な笑いの中に混ざって、 すばるの大げさなテンションに少し呆れて、 真白の刺すような言い方にいつも通り返して、 紬希の静かな笑いを近くで見ながら、 文化祭のあとを普通に締めくくる。 そういう金曜の放課後へ、今日はちゃんと行きたかった。 でも、朝の時点でスマホの画面には、別の金曜も並んでいる。 家側管理室。 AstraLinkマネージャー。 どちらもまだ“確定ではない”という顔で、しかし確実にこちらの時間へ食い込んでくる通知ばかりだ。 金曜夜、予備待機の可能性。 家側から追加確認が入る場合あり。 夕方以降の移動を空けておいてほしい。 こういう時の“可能性”が、どれだけ厄介かは嫌というほど知っている。 確定ではないから先に断言もできず、 でも軽く考えていると、あとで一気に崩れる。「……最悪だな」 家を出る前、玄関で靴を履きながら小さく呟いた。 金曜の軽さは、湊人のところには最初からほとんど届いていなか
鳴海すばるは、期待しすぎないようにしようと決めるのが、わりと下手だ。 もっと正確に言うなら、決めること自体はできる。 でも、その決意を守りきるのがあまり上手くない。 明日の金曜打ち上げについても、そうだった。 期待しない。 来られたらラッキーくらいに思う。 来られなくても仕方ない。 最近はいろいろあるっぽいし、そこを無理に明るく踏みにじるのは違う。 そこまではわかる。 頭ではかなりわかる。 でも、心とオタクの神経が、そういう賢い距離感を守ってくれない。 久瀬湊人が「行くつもりでいます」と言った声とか、 文化祭の日に聞いてしまった数秒の温度とか、 “ちゃんと来たいのに、来られるか分からない人”の気配とか。 そういうものを一度拾ってしまったあとでは、 “別に期待してませんけど?”みたいな顔をするのは、かなり難しい。「……いや、しないけど」 朝、自室の鏡の前で前髪を軽く整えながら、すばるは小さく呟いた。「しないけど、来たらうれしいのはしょうがなくない?」 誰に向けた言い訳かは、自分でもよくわからない。 でも、それくらいにはもう、明日のことを意識してしまっていた。 ◇ 教室へ入ると、文化祭明けと打ち上げ前が混ざった独特の浮つきが、まだそこにあった。 日野が前の席でスマホを見ながら「級長、まだ店の最終返事来てないっぽい」と言っている。 真白は「朝からその話しかしないの」と呆れているが、完全に無関心という顔でもない。 紬希は少し静かで、でも今日は昨日より表情がやわらかい。 そして、久瀬もいる。 いる。 それだけで少しだけ安心してしまう自分が、すばるはやっぱり面倒だった。「







